三溪園の記憶、先人のまなざし。
2015年の桜は早めの開花。
今日、3月31日が私の住む首都圏では一番のお花見日和だったようです。
世の中は桜の花盛りだというのに、
3月8日の梅のことを書こうとしております。すいません、のんびりで。
さて、三溪園のことをタイトルに書きましたが、
友達が結婚式を挙げて以来約2年ぶりに、
この風流な日本庭園に足を運びました。
三渓園の三渓とは、本名を原富太郎という実業家の文士としての称号です。
彼は、早稲田大学の前身で学んだ後、横浜の生糸商である原善三郎の
孫娘と結婚、1899年には、生糸売込み商の原家の家業を継ぐことになります。
1900年には、群馬の世界遺産となっている富岡製糸場などの製糸業にも
進出し、実業家として事業経営を積極的に行っていきました。
ビジネスだけでなく、同時の多くの社会福祉活動にも関わったそうですが、
三渓の文化的貢献は、三渓園に凝縮されています。
古美術と近代日本美術の蒐集、新進画家の支援を行った
三渓自身も、絵や書画を嗜み茶道を愛した芸術のよき理解者でした。
三渓は、多くの文化人と交流を持ち、アジア人で初めてノーベル文学賞を
受賞したインドの詩聖と言われるタゴールは、
この三渓園に長期滞在したとか。インターナショナルですね~。
三渓園で原三渓が追求したかった世界、愛でていたものは何か。
日本の風景や伝統の文化・芸術を制作のテーマにして活動されている
写真家エバレット・ブラウンさんが、その三渓の世界観や眼差しを
探って、13点の写真にして見せてくれました。
エバレットさんが使うこの湿板光画という技法は、
160年も前の古い写真技術だそうです。
写真展で作品を初めて見る私にとっては、
カラー写真では汲み取れない空気感や、奥行、情感を感じさせてくれる
素晴らしいものでした。
三渓の背丈と目線の高さで屋敷の入口に立ち、その奥を写した写真。
三渓が考案した椅子の置かれた和室。
障子の向こうの松の影。
臥竜梅のひと枝。
それらの写真からは、不思議なほどの奥行と人の気配を感じて、
何かが動き出すまでいつまでも見ていたい気持ちになりました。
三渓の眼差しと、その目に映っていたであろう世界。
エバレットさんが、寄り添いながら、そのまなざしの先を映し出すという、
微妙に違う二つの立ち位置を見事に作品に込めているように思いました。
ニ度三度、彼の写真を見ているうちに、私はふと、同じように
ある先人の見ていたものを見ようとしていた芸術家を思い出しました。
外尾悦郎さんという方です。
スペインカタルーニャの都市バルセロナで、現在も制作が進められている
ガウディのサグラダ・ファミリアの主任彫刻家です。
私が25、6歳の頃、大学の後輩に誘われて、東京は御茶ノ水の
カトリック教会で外尾さんのお話を聞く機会に恵まれました。
外尾さんは、日本にいるときは掛け持ちで美術教師をしていたそうですが
ヨーロッパ旅行中、ガウディの建築に出会ってしまったそうです。
文字通り、「出会ってしまった」わけで、そこから彼はもうガウディの
世界の虜になり、とうとう主任彫刻家として何年も携わることになりました。
一字一句覚えてはいませんが、その時印象的だったお話は、
ガウディが見ていた自然、世界、その先にある大いなる存在である神、
そういったものを自分も一緒に見たい感じたいと思った、という内容でした。
ガウディは紆余曲折を経てカトリック信者としての信仰に目覚め
サグラダ・ファミリアの建築を手がけたようですが、
外尾さん自身もガウディの感じていた神の存在を
自分も感じたい、そう思われたそうです。
エバレットさんも、外尾さんも、いってみれば職人的側面をもつ芸術家。
そして、その二人が、虜になった先人はそれぞれ違う国の人。
二人の、三渓やガウディの見ていたものや世界観への
寄り添い方、追いかけ方がなんだかとても面白い。
あの人のまなざしの先にあるものを自分も見てみたい。
そして、ほかの人にも見てもらいたい。
貪欲でありながら分かち合おうとする、
その複雑で豊かな欲求には、なんとなく好感を持った私でした。
エバレットさんの作品にあった「臥竜梅」。
三渓園が閉園する直前5分前の、人がいなくなった静かな梅林。
エバレットさんの写した可憐な梅の花を思い出しながら、
80年近く前に三渓が実際に愛でたであろう臥竜梅を
今私も見ているんだろうか。
時間を超えて対話するエバレットさんの写真が、
もしかしたらちょっとだけ、
原三渓と私の目線をつないでくれたかもしれない3月8日のお話でした。