Hamaguri Ryoko-Soloris Works

ソロ活動のリス改め「はまぐり涼子」、絵を描く。

Banksy Does New Yorkからつれづれなるままに。

平日の夜にBanksy Does New Yorkを観る。

プレ上映期間に観に行く自体、自分は手のひらの上で

転がされているなぁって感じですが、断片的に観てきた

バンクシーの表現作品をまとめて観ることのできたいい機会でした。

バンクシーがニューヨーク滞在期間中、毎日市内のどこかに

自分の作品を発表するというそのイベントに振り回されまくる人々を

また観るという、不思議な感じが面白かったです。

バンクシーを追いかけてその作品を見つけること自体に喜びを感じる人、

その作品に群がる人々を見てこれは儲かるぞと作品を盗んだり、

勝手に売ろうとする人、反感を持って作品に更にペイントする人、様々。

バンクシーのゲリラ的グラフィティ・アートは、現代の法律に当てはめると

器物破損に当たるとして犯罪者とみなす場合もあるし、

社会を痛烈に批判するようなアートを残して逃げ切るバンクシー

英雄視する人もいる。

結構直接的、でも多くの人にわかりやすい風刺をこめた彼のグラフィティが

制作後持ち去られようが、消されようが、本人のその後の反応はとくになく、

描いた本人はどこまで確認しているのかわかりません。

彼は自分のまいた種が、他人の群れによって彼の想定の範囲で、

あるいはその範囲外で、さまざまに変化していく在り様をどこかから

面白がって観ているのかもしれません。

映画の最後にあったトーク・イベントでは、

映像作家の丹下紘希さんのお話が想像以上に面白かったです。

正直なところ、丹下さん自身がどんな方かも知らなかったのですが、

話を聞いているうちにどうもずいぶん社会派な人だなと思ったら、

戦争の作り方」アニメーションビデオの制作をされた方

ということが分かりました。

彼の言った、

「もはや芸術がなんたるか、なんていうことは僕も分からないし、

現代アートにおいてはそれを定義することすら無意味かもしれない」

という言葉には、そうかもなぁなんてうなずいてしまった。

自分のしていることに意味を求めるのが多くの人間がすることであって、

その行為の定義をしたがる。私もそう。

バンクシーという存在とその行為をきっかけに、論争がはじまり、

人々がその意味を探り合う。

停止していた思考がそこで動く。

バンクシーのソーシャル・メディアを駆使した活動に、

翻弄される人々も、それを見て鼻で笑う人達も、全部滑稽。私も含めて。

でも、そこで議論が生まれるのは面白いことです。

芸術という言葉に、社会という言葉とその意味に、

そしてそれをとりまく資本主義に、やっぱり振り回されているなぁ、

と思いながら帰宅したのでした。

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